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インタビュー画像代表取締役社長 藪口 真太郎氏 1976年生まれ。22歳のときに、祖父が創業したラッキー工芸に入社。創業家の3代目にあたる。営業で手腕を発揮し、数々の大手チェーン企業の案件を受注。ラッキー工芸の急成長に貢献してきた。 2016年4月~2020年7月 専務取締役  2020年8月 代表取締役就任

家業であるラッキー工芸に入社した経緯を教えてください。

22歳で入社して、今、24年目です。特に親に言われたわけでもなく、自分から入りました。当時、父が大きい病気をして、まだ父も若かったですから、祖父も祖母もえらく落ち込んで。家族が大変なことになっていたので、漠然と「俺が行かなあかんのかな」と思いました。 元々、自分の家の前が会社でしたので、子どもの頃は夏休みの工作も作ってもらいましたし、製図の用紙を破ったり、普段から遊び場としてメチャメチャやってました。社員旅行にも連れていってもらっていましたし、自然な流れで馴染めましたね。 ただ、僕自身は看板を作る技術はありません。だから、ウチのみんなはすごいと思いますよ。「ものを作りたい」「看板を作りたい」と志を持って入って来てくれていますから。もちろんスキルもすごいですし、新しいものへの感性などは、社員のみんなのほうが高いのではないでしょうか。 負けじと僕も、現場で職人さんの作業をずっと見ながら時間を測って、この工程にはどれくらい時間がかかるかなど、メモをとって勉強しました。センスを磨くために、休みの日にはいろいろな商業施設を見に行ったりもしましたね。

入社以来、どのような仕事をしてきましたか。印象に残っている仕事はありますか。

入ったときは15名。今と違って分業ではありませんでした。職人さんが看板を作って、取り付けまで一人でやります。僕は3年間は現場で、勉強がてら職人さんのサポート的な仕事をしていました。 その後営業に移るのですが、最初のお客様が、前の担当者が怒りを買ってしまった会社さん。出入り禁止のところに1カ月間毎日通いつめましたね。初めは会話もしてくれませんでしたが、続けるうちにポールの塗装の仕事をもらいました。それが最初の受注だったので、今でもよく覚えています。その仕事を一生懸命やったら、今度はほかのお客様が、「お前、エエなあ。ウチの仕事するか」と。その方は大阪のお客様で、次はそこから東京のお客様を紹介してもらって、だんだん仕事が広がっていきました。 初めて東北で、大きなショッピングセンターの店内看板の仕事をしたときは、あまりに段取りが悪くて、職人さんが怒って帰ってしまったこともありました。そのため、次の現場からはその職人さんたちのために分単位でスケジュールを組みました。1日20名ほどの職人さんに来てもらっていたので、班に分けて段取り良く。そんな具合にやっていたら、だんだん信用してもらえたんですね。娘が生まれる日に、職人さんらが「あとはやったるから帰れ」と言ってくれて、無事に間に合った…なんてこともありました。 ラッキー工芸の飛躍のきっかけが、お弁当屋さんチェーンの「ほっかほっか亭」から、「ほっともっと」へのブランド変更のプロジェクト。これも人のつながりで始まりました。ある日、普段から仲が良いお客様が「ほっともっと」の運営会社のプレナスの担当者の方を紹介してくれたのです。博多の居酒屋で(笑)。知り合った翌年に、いきなり約1000店舗の看板を変える仕事を受注しました。1月にブランド変更を発表して、5月15日に一斉交換。大変でしたけど、全力でやり切りました。それまで7億円だった売上が一気に12億円に。その勢いで、福岡の事務所にあった備品をそのまま東京に運んで、東京事務所を開設しました。

東京進出後は順調だったのですか。

そんなことはありません。本社は姫路で、売上も10億円の規模。どこに行っても名前は知られていないので、地道に開拓の活動を続けました。その中でいいお客様と巡り会うことができたため、ここまで来れたのだと思います。 結局、誰かに「大きくしてくれ」と言われたわけでもなく、ただ好きでやってきました。仕事が増えれば、それだけいろいろな人と出会えます。それが嬉しくて、またいい人に出会おうとするため、どんどん仕事も広がっていきました。 最初は、父親を信頼するメンバーばかりで、僕の言うことは聞かないという状況でした。でも、それがよかったんでしょうね。与えられることがなかったから、逆に頑張らなければと奮起しました。僕と同じ3代目で、親がカリスマ経営者で…なんて人は大変だと思います。安泰だけども敷かれたレールを進むだけ。僕は、何も与えられず、だからこそ20代のうちにいろいろな経験をできたのではないかと思います。 もちろん大きな恥もかきました。描いた図面を、目の前で破って捨てられたこともありました。それはそれは腹が立って悔しくて…。でもそのときに、「絶対、次はびっくりさせたる」と思って、スキルの高い人を採用したり、いいソフトがあると知って使ったり。恥をかいて、注意されて、バカにされて、そのおかげで成長できたと思っています。

仕事をすることで人の輪も広がった24年間。いいお話ですね。

そうですね。でも一回、ラッキー工芸を辞めようと思ったことがあるんです。親子でやっていると色々と思うところもあって、それなら独立すると。僕が開拓したお客様を連れて辞めれば、やっていけるのではと自信もありました。 それで、お墓に報告に行ったんです。創業者の祖父に。だけどそこで、「やっぱり、俺、ラッキーじゃないと無理だな」と思いました。ラッキーの名前じゃないと自分にとって意味がない。 僕の仕事の原動力は、ラッキー工芸という名前を世の中にもっと知ってほしいという思いです。それは日本だけではありません。世界中に広げたい。それでラッキー工芸と関わった人が、お客様も社員もみんなが「良かったな」と思えるようにしたいんです。もっとこの場所で頑張らなければと気を引き締め直しましたね。

今後は世界へ、大きな構想ですね。詳しく聞かせてください。

2022年タイ・バンコクに現地法人を設立しました。これも縁ですね。たまたまウチの社員がタイに住むことになって、でもラッキー工芸を辞めたくないと言うのです。ラッキー工芸を大事に思ってくれている人には何かの形で報いたいと思っているので、これも何かの縁かもしれないと考えることにしました。 元々、姫路の工場にベトナム出身の社員が数人いますので、そのメンバーが制作の技術を覚えてから、現地に行こうかと考えていましたが、丁度良いタイミングかなと。 ちょうど、お客様で現地に出店しようとしているところもあるため、その仕事は絶対に取りたいと思っています。このお客様とのご縁と、そこから広がるつながりを大事にして進めていきたいです。あとは誠実にやるだけですね。誠実でなければ、人は離れていってしまいます。 創業者の祖父は元々警察官でした。当時の職人さんは本当に誠実で、みんな口下手だけども、すごく信頼関係ができていました。「誠実」はラッキー工芸のDNAみたいなもの。これからいろいろな人が入って新しいラッキー工芸を作っていきますが、ビジョンの「感動」と、昔ながらの「誠実さ」は大事にしていきたいと考えています。

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