技術統括部のミッションと、部や会社全体をどのようにしていきたいとお考えですか?
技術統括部のミッションは、大きく二つあります。一つは新製品や新技術への移行で、もう一つは、IT製品の輸入販売という既存のビジネスの生産性をより高めていくDXです。つまり、“攻め”と“守り”のトランスフォーメーションと言えます。 今後のビジョンとしては、次のようなことを考えています。 ITの世界には、ロシアのウクライナ侵攻でも明らかとなったサイバー戦争によるセキュリティニーズのさらなる高度化や、サブスクリプションモデルの台頭といったパラダイム変革が起きています。そうした中、創業三十有余年経つ当社の一部には、エスタブリッシュメントの意識が芽生えているように感じています。創業当時の当社には、おそらくベンチャー意識の塊のような、やんちゃな熱があったと思います。そんな熱を取り戻して、再び攻勢に出るように改革していきたいと思っています。
社員に対して、どういった存在になってほしいかの思いをお聞かせください。
社員は最重要のステークホルダーです。是非仕事を好きになって、イキイキ楽しく働いてほしいと思いますし、好きな仕事を突き詰めて結果的に企業価値を高め、報酬面でも豊かに、幸せになってほしいと思っています。 私は外資系企業での生活が長かったせいか、“会社に尽くす”といったサーバントな精神ではなく、会社は個人が利用するぐらいでいいと思っています。そのためにも、ベテランも新人もない、オープンでフラット、誰でも堂々と意見が言える組織にしていきたいですね。 また、活躍するためには能力アップが不可欠ですが、そうした機会もふんだんに設けていきます。社外研修やeラーニングだけでなく、自分自身が講師になって、技術だけでなくベンチャーで叩き込まれた財務会計やマーケティング等も含めた寺子屋形式の勉強会を、既に延べ数百時間は行っています。技術のことだけ分かっているエンジニアでは視野狭窄に陥りますから。 こうしたことにおける私のミッションは、メンバーの“やる気スイッチ”を押す、自分では“やり場づくり”と呼んでいる環境整備であると自任しています。社内報代わりに“社内ラジオ”をつくったこともありますよ。 求職者の方に対しては、当社は世界中のスタートアップの最新プロダクトに数多くタッチできる機会があるので、エンジニアには面白いのではないかということと、エンジニアもマーケティングやビジネスモデルを学んで事業を動かす充実感を得られること、そして小規模ながら海外スタートアップの新製品1本で世の中の景色を一変させるチャンスも味わえると申し上げておきたいです。
奥野さんの仕事観をお聞かせください。
よく、オンとオフは明確に切り分けるべきと言う人がいますが、私は人間の脳みそは両者をそれほど明確には切り分けられないのではないかと思っています。少なくとも自分にとっては地続きですね。例えば、10歳の頃から好きになったパソコンは、趣味でもあり続けていますし、もちろん仕事にもなっています。パソコンに触れ、知識やスキルを高めることに時を忘れることは、決して人に押し付けるものではありませんが、自分にとっては大切なことです。その結果、間接的であっても世の中に貢献できることに繋がれば嬉しいですね。
オフタイムは、どういった過ごし方をしているのでしょうか?
コロナ禍になって、29年ぶりにエレキギターを弾きました。その昔、パンクバンドをやっていたんです。パンクと言うと反社会的な人間のように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。 また、先ほども言ったように、パソコンにも触っていますし、本を読む時間も多いです。
ご略歴をお教えください。
1995年に大学卒業後、大手企業に技術職として入社しました。当時はまだシステムエンジニアとネットワークエンジニアの区別が曖昧で、ネットワークを構築した次の日はシステムを開発するといった“何でも屋”状態でした。 20代後半で、金融システム関連のナショナルプロジェクトのリーダーとして2件のプロジェクトを任され、完遂させて自信を持ちました。そこで、2001年にアメリカのヒューストンにある通信事業者系テックベンチャーに転職したのです。ガートナーが一時期“Emerging Startup Best3”に加えたほどの会社です。まさにメジャーリーグに挑戦するような気分でした。とはいえ、日本の大手SIerの花形部署でエースとして活躍した自信を引っ提げて乗り込んだわけですが、与えられた名刺の肩書は“Install and Customer Care”という一番の下っ端。これで発奮し、半年後には“Senior Database Architect”に昇格します。そして3年後には、日本人初のGeneral Managerに就任できました。 同社に延べ10年ほど在籍し、2011年11月に帰国し当社に入社しました。 外資系大手を含め何社からも内定をもらった中、当時の当社はグループで100人程度の規模にもかかわらず、大手のお客様と対等に渡り合っているエネルギーを感じたのです。創業から20年以上が経っていましたが、ベンチャー気質も色濃く残っていました。「ここでまた現場から頑張ってみたい」と思ったことが入社の決め手になりました。